文月

2022.7.17

 太宰が俺の家に居候し始めて7ヶ月目。残り半年を切ったか。梅雨明けして、いよいよ夏本番だ。朝ご飯の支度をしようと思い、俺はベッドから起き上がった。そして、隣で寝ている太宰の前髪をそっとかき分け、額に軽く口付ける。最近の日課だ。ふとした時に、太宰は俺に口付けしてくるようになった。額だったり頬だったり、たまに唇にも。太宰はどうせ気付いているんだろうが、何も云ってこない。だから俺は好きなようにする。これは、太宰への仕返しだ。
 根本的な考えが俺たちは違っていて、相容れない所が多すぎる。嫌いなのは間違いない。それは分かっているけれども、そんな気持ちは関係なしに、俺たちはきっと離れられない。互いが必要なんだと、心の奥底では分かっているのだ。太宰がマフィアを離反したからこそ、俺はこの気持ちに少しだけ素直になれる。だから、太宰からの口付けを拒まないのだ。それに、太宰との口付けはなんだか心地良い。甘えることが下手くそな俺を今の太宰は甘えさせてくれるし、まァ、この生活も悪くはないと俺は思っている。
 口付けた額がいつもより熱い気がして、俺は太宰の額に手を当てた。どうやら熱があるらしい。抱きしめられて眠っていた時も、いつもより熱い気はしていたのだ。ただ、最近は暑いから、エアコンをつけていても体同士が密着していれば暑くて当然だと思っていた。
「……ちゅうや」
 太宰がゆっくりと目覚めた。熱でその瞳は潤んでいる。
「病院、行くか?」
 恐らく、自分の状態など太宰は把握済みだろう。だから俺は単刀直入に尋ねた。
「いい。2、3日寝ていれば治ると思う」
 今年は突然猛暑になって、しかも梅雨も例年より短かった。きっと体が追いつけなかったのだろう。そういう所は繊細そうだしな、太宰は。
「そうか。朝メシ粥でも食べるか? 探偵社には休むって連絡入れておけよ」
「お粥は半分くらいでいいよ。食欲あまりなくてね。探偵社には、中也が電話してくれると助かるのだけれど」
「なんで?」
「そこは察してよ」
 サボる癖は探偵社に入っても変わらなかったらしい。太宰は特に書類を書くことを面倒くさがる。何度、太宰が本来書くべき報告書を俺が書かされたことか。そのおかげで、俺はあった出来事を上手く纏める技術を身に付けた。
「相変わらず、日頃の勤務態度は悪ぃみたいだな」
 今回ばかりは本当に体調不良なので仕方がない。俺が電話してやろう。俺は太宰の携帯端末から連絡先を探した。
「で、探偵社でいいのか? それとも長身眼鏡の方か?」
「うーん、この時間なら国木田くんかな」
 俺は電話帳のか行を探す。国木田、国木田……。探してもまったく見つからないどころか、太宰の電話帳はあだ名のオンパレードで誰が誰だかよく分からなかった。俺が「蛞蝓」で登録されていることは知っていたが、他の奴までこんなことになっているとは。
「おい、国木田はどれなんだよ」
「国木田くんは『鬼畜眼鏡』で入ってる」
「はぁ?」
「だって国木田くん、私に仕事をさせようと五月蝿いんだもの。鬼畜じゃないか」
「それは全面的に手前が悪い」
 それだけ云うと、俺は国木田に電話を掛けた。国木田が出て、第一声は「太宰、昨日の報告書はまだか」だった。電話の相手が太宰ではなく俺だと分かると、国木田は「いきなりすまん」と謝ってくれた。報告書の件は太宰に云っておこう。国木田も太宰の対応に苦労しているみたいだから、力になってやりたい。太宰が発熱で3日程休むことを伝えると、必要なものがあれば届けると申し出てくれたが、ここ周辺はマフィアしか住んでいない。休戦協定中だからといっても、住居まで知られてしまうのはマズいと思った。申し出は有難かったが、断らせてもらった。「太宰をよろしく頼む」と最後に言われた。国木田は律儀な奴だな。
 国木田に連絡した後、まず俺は冷却シートを用意した。
「パジャマ、着替えておくか。起き上がれるか?」
「うん」
 体温計で太宰の体温を測ると、39度近くあった。これはツラいはずだ。熱で体が重いのだろう。太宰の動きはいつも以上に緩慢だ。水で濡らしたタオルで体を拭いてやると、少しサッパリしたみたいだった。冷却シートを脇の下と額に貼り付け、パジャマを着せてやった。
「粥を作ってくるから寝てろ。解熱薬はその後だな」
「……うん」
 返事はいつもより、弱々しかった。

「お待たせ。食えるか?」
 粥を作った後、スポーツドリンクと解熱薬と薬を飲むための水をお盆に乗せて寝室に入った。サイドチェストにお盆を乗せ、太宰に粥の器とスプーンを渡した。太宰はスプーンで粥をすくい、少し冷ましてから口に運んだ。咀嚼し飲み込むと、太宰はポツリと云った。
「……味がしないや」
「そりゃあな」
「中也が作ってくれたのに、味がしないだなんて勿体ない」
「それなら今日は大人しく寝てろ」
「中也、今日は大事な取引先と会合でしょ? 早く行きなよ。私は大人しく寝てるからさ。動けそうもないし」
「分かった。スポドリとかここに置いておくから。何かあれば連絡くれ」
「うん。いってらっしゃい」
 元気はなさそうだが、喋る余裕はまだあるみたいだ。こんな奴でも、本当はこんな時だからこそ側に居てやりたかった。こういう時は、誰だって何となく心細いものだから。

 太宰の返事を聞くと、俺は自分の支度をして玄関を出た。玄関を出て、眼裏に浮かんだのは弱った太宰の、寂しそうな顔だった。やっぱり側に居てやりたい。しかし、今回の仕事は俺が出向かなければならない。日にちもずらせない。一瞬考えた後、俺は急いで玄関に戻り、履いた革靴の紐を解いて靴を脱いだ。急ぎすぎてバラバラにひっくり返ってしまっても気にしない。寝室への階段を駆け上がり、ドアを開けた。
「どうしたの中也。忘れ物?」
 気怠げで辛そうな太宰の声を無視して、俺は太宰に口付けた。いつもよりうんと熱い、太宰の唇。熱が少しでも俺に移るように、数秒間唇を合わせた。それでは太宰の熱を奪うには足りない気がして、軽く吸い付いてからゆっくりと唇を離した。
「なるべく早く、帰ってくるから。そんな顔するな」
「どういう顔してたの、私」
「寂しそうな顔」
「そう見えたんだ、中也には。……ちゅうやはかわいいねぇ」
 太宰は俺の頭をよしよしと撫でた。折角セットした髪が台無しだ。
「なっ、かわいいって何だよ」
「『寂しそうな顔をした私』を心配して、わざわざ戻ってキスしてくれたんだろう? かわいいじゃないか」
 太宰は熱に浮かされているのだろう。俺がかわいいはずないではないか。
「バカ言え。んな訳ねぇだろ」
「中也はとってもかわいいよ。大丈夫、私はちゃあんと、君の帰りを待っているから。君が云う通り、私は寂しがりやだからね、早く帰ってきてよね」
 ふにゃりとした顔で太宰は云った。俺の頬に手をあて、親指で優しく撫でてくる。
「さっさと寝ろ」
 病人に乱暴はできないし、そうでなくても、今の俺に太宰の手を跳ね除けることはできなかった。言葉とは裏腹に、そっと頬にあてられた太宰の手に自分の手を重ねる。冬は特に冷たかった太宰の手は、やっぱり熱かった。
「ほら、時間もうギリギリでしょ。行きなよ。中也こそ、そんな寂しそうな顔しないでよ」
「……行ってくる」
 自分が看病できないのも心苦しかったが、それ以上に太宰と離れるのも、今日はなんだか嫌だった。太宰が風邪だから、離れるのが寂しいのだろうか。名残惜しげに太宰の手を退け、俺は今度こそ家を出た。

* * *

 今日1日の任務を終え、俺は自宅に帰ってきた。仕事中も太宰のことが気になってしかたなかった。先月出張の時も太宰のことが心配でたまらなかったが、今回はただの風邪といっても病気なので、余計に気になってしまう。今日の任務は荒事ではなく会合だったのだから、他事を考える余裕もあった。いくら太宰であっても、いつ死ぬかなんて分からない。今まで生きてきて、俺はそれを嫌と云うほど知っている。ただの風邪でまだ22歳の太宰が死ぬ確率は殆どゼロだと分かっていても、何らかの理由で敵に襲撃される可能性だってある。太宰は間接的に旗会の仲間たちを死に追いやったのだし、憎くて、嫌いで当たり前のはずなのに、もし死んでしまったらと考えた時、何故か憎悪よりも悲しさが勝ってしまうのだ。多分、だから俺は寂しく感じたんだろう。風邪で弱っていたら、僅かであっても風邪以外の理由で死ぬ確率も上がってしまう。自分が隣に居れば、太宰が生きていることをしっかり確認できる。太宰の代わりなんて存在しない。「死なす」と口に出したところで、俺は太宰を死なせることが恐らくできない。喪ったら、とてつもなく悲しくて寂しいだろうから。この生活をしていて、本当はそう思っていたのだと自覚してしまった。
 手洗いをして早速2階の寝室に入った。物音で目覚めていたのだろう。太宰はすぐに目を開いた。
「おかえり、ちゅうや」
「熱は?」
「朝よりは下がったと思う」
「冷却シート、カピカピじゃねぇか。変えるぞ」
 サイドボードに置いたスポーツドリンクやゼリー飲料はなくなっていた。解熱剤も飲んだようだ。熱を測ると38度4分。朝よりマシになったようだが、明日も仕事をするのは無理そうだ。太宰の予想通り、熱が下がるのに本当に3日程掛かるのだろう。今度も濡らしたタオルで体を拭いてやり、パジャマを交換し、すっかり役目を終えた冷却シートを貼り替えてやった。
「ありがとう」
「じゃあ、俺は別の部屋で寝るから。手前はまだゆっくり寝てろ」
「いや。わたしはちゅうやと一緒に寝るの!」
 またあの顔だ。熱のせいでへにゃへにゃしている顔。普段から人生というものを客観視しすぎて仙人みたいな思考になっている男が、こうして駄々をこねている姿を見るのは実に面白い。
「うつるかもしれないだろ」
「……いいじゃない、うつっても」
「なんだって?」
「中也も熱が出たら、流石に休むでしょ。そしたらふたりで、ゆっくり過ごせる」
 名案だ、と顔でも訴えてくる。何故だかムカついた。
「分かったよ。でも、これは看病だからな!」
 ムカついたのは、太宰が風邪をひいていても一緒に眠りたいと思っていたからだった。太宰からの提案は名案かもしれないだなんて思ってしまった自分自身が、少し嫌になった。俺には仕事がある。明日風邪をひいたら任務に支障をきたす。……今までこんなに寂しく思うようなことはなかったのにな。

 シャワーを浴びて歯磨きもして、寝室に行くとまた太宰がへにゃりと笑った。あぁ、この顔は案外かわいいのかもしれないと思ってしまい、俺も人のことは云えないんだと悟った。布団に潜り込むと太宰が抱きついてきた。
「おい、無理するなよ」
「ちゅうやが冷たくて気持ちいい。今日も1日、がんばったねぇ」
 また頭をよしよしと撫でられた。太宰の体は未だに熱い。こんなの、病人のうわごとだ。それを分かっていても労われたのが嬉しかった。仕返しにまた口付けしてやると、太宰は嬉しそうに破顔して目をつむった。