お目覚めはこの曲で

2020.05.10

 教室の掛時計が3限終了の時刻を指す。教授が講義終了の言葉を述べると、生徒たちは一斉に教科書を片付け教室の外へ出て行った。特に質問したい点もなかったため、中也も大半の生徒と同じく教室を去る。頭の中で次の時間割を思い浮かべ、心の中で舌打ちする。何せ次は、太宰も取っている講義だから。講義に出席するよう云う度拒否され、「なんでこんな奴のために、俺はこんなに頑張っているんだ」と思ったことは数知れず。しかし、同じ大学なのだと知り「世話をやく」と自分で決めた。途中で投げ出すのはもっと嫌だった。それに、彼奴とは腐れ縁なのだから気になってしまうのも仕方がない。不可抗力というやつだ。どこにも吐き出せないフラストレーションを抱えつつ、中也は部室棟へ向かった。

* * *

「おい太宰、講義行くぞ」
 不機嫌オーラ全開で部室の扉をバーンと開け放ちながら太宰に声を掛けた。しかし、いつもの不満そうな返事はなかった。室内に足を踏み入れ見渡してみると、太宰は机に突っ伏して眠っていた。いつも通り、講義に出席するつもりはないらしい。今度こそ堂々と舌打ちした。
「どうやって彼奴を起こすか……」
 出席拒否されることに慣れてしまった中也の頭の切り替えは速かった。部屋にあるCDを大音量で掛けてやろうか。ベートーヴェンの「運命」なんてどうだろう。有名すぎるあの旋律は、最悪な目覚めにもってこいではないか。あとは「威風堂々」とか。出だしのインパクトで云えば十分な効果が得られそうだ。「天国と地獄」は? ……いや、これを掛けてしまうと永遠に終わらない追いかけっこが始まりそうなのでやめておこう。仕方ない、こうなったら奥の手を使うか。
 中也は室内に置いてあるアップライトピアノの蓋を開け、両手を構えた。スっと息を吸い弾き始めたのは――ラジオ体操第一だった。

 出来る限りの大音量で演奏する。前奏を繰り返す。2回目あたりで既に効果は出始めていた。太宰の背中が、プルプル震えていたのだ。ニヤリとしながら5回目の前奏に入った時だった。
「ちょっと中也、その選曲なんなの!」
 爆笑しながら太宰ががばりと起き上がった。
「ア? わかるだろ、ラジオ体操第一だよ。さァ、『のびのびと背伸びの運動から』」
「ちょっと待って、何でナレーションまで覚えてるのさ」
 一層腹を抱えて笑い始めた太宰に、中也は続きを弾きながらこう答えた。
「高校のボランティア活動で、ちょっとな。それよりもオイ、体操しろ。オラ、『腕を回す運動です』」
「く、今回は負けたよ」
 珍しく太宰が負けを認め、体操し始めた。その後徐々にお互い調子が出てきて、気付けば第二も体操していた。結果的に中也は、いつもより遅刻せずに太宰を講義に連れていくことが出来た。
 講義が終わった後、ふたりは部室へと帰ってきた。定位置の椅子に腰かけると、太宰が口を開いた。
「ねぇ、何でラジオ体操なんて弾けるのさ。そもそも君、ピアノ弾けたっけ」
「俺がピアノで唯一弾けるのが『猫ふんじゃった』と『ラジオ体操』なんだよ」
「明らかに選曲おかしくない? ピアノで弾くにしても、もうちょっと有名で簡単なのあったでしょ……。いや、確かにラジオ体操も有名ではあるけどさ」
「さっきも云ったが、高校生の時、ボランティア活動で演奏することになったんだ。老人ホームに4人のグループで訪問することになってな、その老人ホームが毎朝体操をする所だったんだよ。なんでも、毎日録音した音源で体操しているから折角なら生演奏で体操させてあげたいらしくって。施設にグランドピアノもあるから是非使ってほしいって云われたんだ。まさかそんな要望とは思わなかったぜ。音楽高校ならまだしも普通の高校だったし」
「それで君は、それを引き受けたって云うのかい? 専門でもなかったピアノを? 猫ふんじゃったしか弾けなかったのに? 莫迦なの?」
「莫迦なんかじゃ、いや、こればかりは俺も莫迦だったと思う。クラスメイトの奴に『中原君って確か楽器やってるんだよね? 出来ないかな』って云われちまって、つい引き受けちまった」
「よくあれだけ弾けるようになったもんだね」
「そりゃ、必死になって練習したからな。ピアノ譜なんてヘ音記号が読めなかったからそこからスタートしたんだぜ? 楽譜に音階名書いてさァ。初めて施設で演奏するとき、一番緊張したぜ」
「それはそれはご苦労なことで。それで、楽しめたかい? 老人ホームでの演奏は」
「そうだな……予想以上に喜んでくれて、嬉しかった。『いつもより迫力があって、体操するのが楽しかった』って云われたなァ。懐かしいぜ。それはそうと太宰」
「何?」
「手前、俺が前奏弾き始めた時、本当は体操したくてうずうずしてただろ?」
「……こういう時に限ってさぁ、本心見破るのやめてくれる? だってこれが流れ始めたら、抗えないやつでしょ? この曲流れてきたらさ、『体操したいな』って思うでしょ当然。中也だってそうじゃないのかな」
 今度は中也が爆笑する番だった。ひとしきりげらげら笑った後で、会話を再開した。
「太宰でもそういう所、あるんだな。ハハ……、マジでおもしれェ。あァ、俺だってそうだよ。この曲が流れてきたら、体操したくなるに決まってる」
「それはちょっと失礼じゃないかい? でもまぁいいや。あとね、君がなんだか楽しそうに弾くからさ、効果は倍増だよ。話を聞いて、成程と思った」
「わかったよ太宰。それならまた弾いてやるから、体操したくなったら声掛けろよ。いくらでも弾いてやるぜ。あまり運動してねぇみたいだし、たまにはどうだ?」
 キラキラした目で訴えてくる中也に、太宰はこう答えるしかなかった。
「わかった」
 こんな風に、純粋な気持ちで頼まれては断れない。あの時の中也もきっとそうだったのだなと思い、太宰は優しく微笑んだ。