「ちゅうや。中也、起きてー!」
初夏の爽やかな早朝、太宰は眠っている中也を揺すっていた。
「……んぅ、なんだよだざい。まだ外暗いじゃねぇか」
眠たそうに目を擦りながら中也は云った。何を隠そう、今は早朝4時なのだ。
「出掛けるの」
「どこに? こんなはやく出るって一体どこなんだよ……」
中也は今にも瞼を閉じてしまいそうだった。布団に潜ろうとする中也を寝させまいと太宰が布団を剥ぎ取る。
「いいから早く〜! 始発に乗りたいの。君に、一緒に付いてきて欲しい場所なんだ」
今日はお互いの休みが久しぶりに合った日だった。中也は近所のショッピングモールに一緒に行って、服や生活用品を買えれば充分だと思っていた。帰ったらおやつでも食べて、それからいちゃいちゃして、そういう流れになったら乗ってやろうかな、という気分だった。始発で出るということは、きっと帰りも遅くなってしまう。久しぶりに一緒に過ごすこと自体が嫌なわけではないが、出来れば太宰と、恋人として触れ合いたかった。中也は明日も休みだ。だから、今日一日潰れた所で問題はない。しかし、太宰はどうだろう。太宰が一緒でないと意味がないのだ。恋人の要望に応えたい気持ちと自分の欲求の間で、中也の心は揺れていた。
「明日、私も休みなんだ。今日のことを考えてスケジュール調整したの。だからさ、付いてきてよ」
中也の心を見透かしたように太宰は云った。
「それなら、いく。でも」
「でも?」
「ぎゅって、して」
今まで休日が合わず、余程寂しかったのだろう。中也は恥ずかしそうに云った。
「それくらい、お安いご用さ」
太宰が中也の腕を引っ張り立たせた。引っ張る勢いそのままにして、太宰は中也を抱き締める。
「だざい、明日は」
「うん。久しぶりだもの。えっち、しようね」
「……ばか」
太宰の言葉に中也は頬を赤らめた。
「え、違った?」
今まで太宰の胸に額をつけていた中也はバッと顔を上げ「そうだけど!」云った。
「ほら、合ってるじゃん」
中也のことだ、ムードを気にしているのだろう。そんな唇は塞いでしまえ、と中也が非難の声を上げる前に、太宰は口付けた。触れるだけの口付けを、何度も繰り返す。
「ん、だざい」
「なぁに?」
すると中也は「もっと」と、べっと舌を差し出した。
「ねぇ、止まらなくなっちゃうじゃない」
そんなことを云いつつも、太宰は再び唇を合わせた。自らの舌をぬるぬると這わせて愛でる。中也は与えられる快楽に抗う様子もなく、久しぶりの刺激に身を委ねていた。早起きして遠出するなら、これくらいの充電はしておきたかった。動きまわる太宰の舌を捕まえ絡ませる。くちゅ、と水音を立てながら互いの口内を行き来する。気持ち良くて、息継ぎの合間も声が漏れ出てしまう。何分か口付けし合っていたが、時間がなくなってきたのか太宰から唇を離した。つぅと銀糸が伝い、ぷつりと切れた。
「あっ……」
まだしていたかったのに、という顔をする中也に対して、太宰は「そんな顔しても駄ぁ目。今日は譲れないんだ」と云った。
「……メシは? 食べる時間あるか?」
「用意したよ。インスタントだけど」
「じゃあ、食べて行こうぜ」
中也はやっと行く気になったようだ。太宰は頷き、ふたりはダイニングへ向かった。
ダイニングには、粥と味噌汁が用意してあった。
「足りなかったら、車内で食べればいいさ」
「新幹線にでも乗るのか?」
「新幹線ではないけど、有料の特急だよ」
「何処行くつもりだよ、ほんと」
「まぁまぁ。それはお楽しみ」
「そうか」
席につき、手を合わせてふたりで「いただきます」と云う。ふたりとも音楽家だからなのか、云うタイミングがずれると嫌で、自然と云うタイミングを合わせてしまう。今も手を合わせる動作から言葉を発するタイミングを計算して、ズレないように、ぴったりと云い切った。朝から合奏しているみたいだ。電車の時刻が迫ってきているので、ふたりは黙々と食べる。食べ終わると服を着替え、持ち物を準備し始めた。
「あ、楽器持ってね」
「楽器ぃ?」
「そ、楽器。私も持っていくから。あとはこれ。車内で譜読みしてね」
太宰は中也に楽譜を差し出した。
「これを弾くのか?」
「うん。君も曲は知ってるんじゃない。ま、それは編曲してあるけど。さて、行こうか」
* * *
ふたりは無事に始発の電車に乗ることができた。地元の駅から大きい駅まで行き、そこから有料特急に乗り換えた。目的地へ行くためには、更に乗り換えが必要だ。太宰と中也は再び電車に乗り込んだ。2両編成で、利用客も殆どいない。電車の本数も1時間に2本程だった。向かっている場所は、太宰と中也が住んでいる所よりも明らかに田舎だ。
電車に乗っている間、ふたりは殆ど会話をしなかった。中也は太宰から渡された楽譜の譜読みをしていた。音源を聴くためワイヤレスイヤホンを装着しようとすると、隣の太宰から片方のイヤホンを奪われた。太宰は中也から奪ったイヤホンを装着する。
「太宰、手前は有線じゃないと嫌なんじゃなかったのか?」
ふたりともよく音楽は聴くので、それなりに拘りがあるのだ。中也はコードが邪魔なのでワイヤレスイヤホンを愛用している。しかし、音質はやはり気になる所なので上位機種を購入した。太宰は、オーディオマニアとまでは行かないものの音質にかなりの拘りがあった。自宅のオーディオ機器は太宰の好みに合わせて微調整がされている。ワイヤレスイヤホンだと少なからず音が劣化してしまうと云って、愛用しているのは有線のイヤホンだ。携帯用の音楽再生機器も、かなり高額なものを使用している。
「だって、中也譜読みしてるし。私暇なんだもの」
「手前だって自分の持ってきてるだろ。いつもは俺のイヤホンで曲なんか聴かねェじゃん」
すると太宰はムっとした様子で中也の耳元で囁いた。
「私だって、中也といちゃいちゃしたいんだよ」
中也は「それなら今日行かなくてもいいのに」と不満げに太宰を見つめた。そして、ため息を吐いて太宰の頭を横から手で押し付け、自らの左肩に寄せた。
「もう、黙って寝てろよ」
眠っているなら、くっついていても仕方がない。太宰は一瞬驚いたが、ふふっと笑って目を瞑ると、中也に体重を預けた。
ふたりの間には、再び静寂が訪れた。電車はガタンゴトンとふたりを乗せて走る。景色は町並みから移り変わり、緑が増えていった。
駅に到着すると、既に10時を過ぎていた。無人改札を一歩出ると、青空と山の緑が鮮やかだ。
「で、ここからどう行くんだ?」
「見ての通り、バスもタクシーもない場所だ。歩くよ」
「どのくらい?」
「うーん、目的地までは40分くらい掛かるかなぁ」
「そんなに掛かるのか」
「うん。だから、お昼ご飯を買おう」
駅の側にある売店で、ふたりは軽食を購入した。太宰は軽食の他に、花も購入した。中也はそれを不思議そうに見詰めていた。
* * *
「着いたよ」
そこは山だった。木々に囲まれ、石造りの階段が山頂へと続いている。
「……墓地?」
石の柱に刻まれている文字を中也は読んだ。
「そうだよ。今からお墓へ行くのさ」
中也は漸く合点がいった。
「だから花を買ったのか。俺はてっきり、物好きな奴の演奏会にでも行くのかと……」
「ははっ、ゲストで演奏するならこんな直前にいきなり楽譜なんて渡さないよ。兎も角、先へ行こう」
太宰と中也は歩き出した。石造りの階段は途中から無くなり、最低限の舗装が施された道を進んだ。
「こんな山中に、墓だなんて。遺族は大変だろうな」
「私もお墓の場所を教えてもらった時は、驚いたよ。辺鄙な所にあるとは聞いていたんだけれど。まさかこんな山を登ることになるなんて、思いやしなかった」
暫く山を登り、痺れを切らした中也が「なぁ、誰の墓なんだよ」と尋ねた時だった。
「やっと着いた。久しぶりだね、織田作」
太宰は優しく語りかけた。それは太宰が慕っていたヴァイオリニスト、織田作之助の墓だった。家毎に区画が分かれているらしく、そこには織田家の人間の墓がいくつか並んでいた。
「織田の、墓か」
「うん。誰かと一緒に来るのは、これが初めてだよ」
「良かったのか? 俺が付いてきても」
「勿論。中也だから、連れてきたんだ」
太宰は荷物を置き、墓石の前にしゃがみ込んだ。以前誰かが来たのだろう。既に枯れた仏花が花瓶に飾られていた。持参した新聞紙に枯れた花をくるみ、花瓶や墓を中也と一緒に綺麗にした後、売店で購入した花を飾った。
「このちっちゃい人が、噂の中也だよ」
太宰は再び墓石の前にしゃがみ込むと、蝋燭に火を灯し、線香に火を点けた。
「おい、織田にまで何云ってやがる」
「中也がちっちゃいのは本当じゃない」
「うるせぇ」
「おぉ怖い。中也って短気なんだよ。あっそうだ、カレーパン、一緒に食べよう。済まないね、ほんとのカレーじゃなくて。織田作ったらこんな所に居るんだもの。なかなか持って来れないじゃない」
売店で太宰はカレーパンを購入していた。半分に割ったパンを、袋ごと供えた。
「好物なのか、カレーが」
太宰が片割れのパンを食べ始めたので、中也もおにぎりを取り出した。
「とんでもなく辛いカレーを、よく食べてたよ。本当は行きつけだった店のカレーを持って行きたいけど、こんな所だし。遠すぎるよ。食中毒になっちゃうかもしれないからさ」
「カレーパンなら、俺が作ってみようか?」
鮭おにぎりを食べながら中也は云った。
「ほんと? 味も似せられるかな」
「試行錯誤すれば、どうにかなるんじゃねェの」
「中也が作ってくれるって! 楽しみにしててよ、織田作」
「オイ、手前も手伝えよ?」
「分かってるって。さてと」
カレーパンを食べ終わった太宰は徐に立ち上がり、楽器ケースから楽器を取り出した。
「今日こそ、織田作が好きだった曲を届けたい。中也、一緒に弾いてくれるかい?」
太宰の声は震えていた。それで中也は、どうして自分がここに連れて来られたのかを悟った。太宰はこの曲を弾くことが出来ずにいる。太宰がずっと慕ってきて、太宰を「人」として認めてくれていた人が好きだった曲だから。その死はあまりにも唐突で、身構える時間などなかった。その衝撃と悲しみは、太宰が音楽をやめようと考える程だったのだ。
「あぁ。勿論」
中也も楽器を取り出し、譜面を準備した。そして、チューニングをふたりでサッと済ませた。
「一応楽譜は全部渡したんだけど、3楽章を弾こう。テンポは、聴いてた音源くらいで」
太宰は楽器を構え、呼吸を整える。これから演奏する曲は、「リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲」。4つの楽章で構成される曲のうちの3楽章「シチリアーナ」だ。元は弦楽合奏の曲で2人で演奏する曲ではないが、中也と演奏することを考慮して太宰自ら編曲を施した。織田が亡くなってから、太宰はこの曲を演奏することも聴くことも出来なくなっていた。曲を聴いてしまうと、あの時の悲しみと絶望が蘇ってくるからだ。携帯音楽機器のデータは真っ先に消去した。パソコンの中の曲データも勿論、楽譜やCDだって捨てた。頭の中に残っている記憶も消し去りたい位だった。それでも弾こうと思えたきっかけは中也だった。中也が「コンクールに出る」と云い出したのだ。今まで興味がなさそうだったのに。理由を聞くと、「太宰に追いつきたいから」と云った。太宰は「別にそんな称号は必要ない」と思っていた。太宰にとって中也は既に、十分隣を預けられる人物だからだ。そもそも、隣を預けられないような人間とデュオをする筈がない。勿論、パートナーとして応援はするし助けたいとも思ったが、最初は心が乗り切っていなかった。しかし、必死に練習している姿を間近で見続けて、気持ちは変わっていった。今まで中也自身も「これで良い」と思っていたことを「変えよう」とするには、想像を絶する根気が必要だ。
太宰は織田作が亡くなり、音楽を辞めようとした。一旦練習を放り出してみたものの、音楽はそこかしこに溢れていることに気がついた。スーパーや店のBGM、電車に乗る時、足音や鳥の囀りまで、太宰にとっては全てが音楽の一部だったのだ。そこで太宰は「音楽からは逃れられない」と感じた。何より続けたい心を繋ぎ止めたのは、中也の存在だった。それほど中也が奏でる音楽が好きだったし、いつかきっとまた隣で演奏することになった時、中也に認められる存在で居たかった。師に推められて数多のコンクールに参加はしてきたが、審査員に合わせて演奏するコンクールはあまり好きではなく、「これ以上賞は要らない」と当時は思っていた。それでも中也の存在があったからこそ太宰は音楽を続け、コンクールに出場してきた。練習を再開した当初はどうしても織田のことが気になり、集中出来なかった。そこで、他の楽器を勉強してみることにしたのだ。結局はヴィオラを選んだものの、ピアノや管楽器に手を出したことは結果的に良い気分転換になった。そして、ヴィオラに決めた時には練習にも集中出来るようになっていた。だから太宰は、中也が練習する姿を見てあの頃を思い出したのだ。必死で音楽に縋る姿が自らと重なり、その時、心底中也のことを応援したいと思った。
近くで戦っている中也を見て、太宰の「中也を応援したい気持ち」は強くなっていった。しかし、中也自身はどうやら太宰の助けを借りたくないようだった。それでも何か力になりたくて中也のコンクールに行ったが、何か物足りない気がしていた。だから今回、今まで出来なかったことをしてみようと思った。以前から織田の墓には、年に4回程訪れていた。音楽家なのだから、生前の織田が好きだった曲を演奏してやりたいと思ってはいた。けれど、墓を前にすると途端に手が震えて演奏出来なくなる。楽器を変えてみても同じだった。考えた末、中也の力を借りることにした。編曲している時も、何度止めようとしたか分からない。夜中に作業を進めるも、消し去ろうとしてやっと記憶の中から消えかかっていた曲を、細部まで思い出してしまい辛かった。こんなに辛い思いをしてまでやる必要があるのかと思った時もあったが、織田に向けて演奏したい気持ちは本物だったし、何より太宰は中也と一緒なら不思議と演奏出来る気がしていた。そう思えたから、太宰は苦しみながらも曲を編曲しきった。
太宰が音を奏でようとする刹那、中也と視線が合った。中也は全てを理解したようだ。かと云って心配そうな表情ではなく、どんなことでも受け止めてくれる聖母のような、凛とした顔だった。やはり震えている腕に、もう一度力を込めて太宰は最初のCの音を弾いた。これが自分の音だと信じられないくらいに、重々しい。その音に怖気づいて、弱弱しくなったDの音。次のEsの音から中也が加わった。中也はあくまで冷静に、太宰の音を支える。いつも通りの音に、太宰は幾分か安心出来た。中也に支えられながら、そろりそろりと音を紡いでいく。ゆっくり、ゆったりと流れる旋律。中也がスタッカートで8分音符を刻む頃、段々と、閉じ込めていた悲しみが溢れてくるのを感じた。刻みに合わせて、少しずつ思い出される悲しみ。ポツポツと折り重なった感情は、音楽の高まりと共に吐き出される。渾身の悲しみを、Dのロングトーンに込めた。それに呼応して、中也が力強く16分音符を奏でる。どんなに時が経とうとも、悲しいに決まっているではないか。太宰は自分が、悲しみを無かったことにしたかったんだと気付いた。織田の死を認めたくなかった。もっと、音楽について語り合いたかった。一緒に演奏してみたかった。いくら思えど、織田はもう帰ってこない。演奏に、ひたすら感情を織り込む。こんなに感情的になるのは、中也とホルストの協奏曲を弾いて以来だった。忘れていた。音楽は人々の感情に、寄り添えるということを。職業柄、完成度に拘りは必要だ。しかし今は仕事ではないし、何より折角思い出せた悲しみと向き合いたかった。今の演奏は、仕事で聴かせられるようなクオリティではない。ただ悲しみに浸るだけの演奏だった。今まで抱えていた感情を解き放って、続くエスプレッシーヴォから漸く弔いの気持ちを込めることが出来た。
そして太宰は、どこかすっきりした気持ちで演奏を終えた。余韻を味わってから構えていた弓を下ろすと、ぽたりと熱い雫が落ちた。
「太宰」
中也は楽器をケースに置き、太宰を抱き締めた。
「弾けて、良かったな」
背が高い太宰の頭を、肩口に押し付ける。楽器と弓を持った太宰の腕が背中に回った。
「うん」
太宰の涙が中也の肩を濡らす。暫くの間、太宰は静かに泣いていた。中也はそっと背中を撫で続けた。太宰は気持ちが落ち着いてくると楽器をケースにしまい、今度は中也を抱き締めた。
「中也、ありがとう」
「おう」
「ちゅうや、だいすき」
「おれ、も」
太宰は抱き締めていた腕を少し緩め、中也を見詰める。中也が顔を上げると視線がかち合った。ふわりと微笑む太宰と、照れて頬を紅潮させる中也。可愛い姿の相棒に耐えられず、太宰は中也の額にそっと唇を落とした。
「くちびるが、いい」
「織田作に見せつけたくなっちゃった?」
「だって太宰はもう俺のだか……ンっ」
中也の言葉を言い切らせずに太宰は中也の唇を奪った。己の存在を刻みつけるように深く、深く。唇を離すと、中也はすっかり腰を抜かしてしまったようで太宰にしがみついていた。太宰が中也の体重を支えている。
「そんなに良かったんだ。ま、いつもと違うシチュエーションだしね」
「いきなりはズルいだろ。俺の楽器、片付けとけ」
「はいはい分かったよ」
太宰は中也をそっと綺麗そうな石畳の上に下ろし、中也の楽器をしまい始める。弓と弦についた松脂をクロスで拭き取り、別のクロスで楽器本体を軽く拭く。弓を緩め、肩当てもケースの所定の位置にしまった。
「ヴァイオリンも、本当に弾けるようになったんだな」
太宰が中也のヴァイオリンケースのチャックを閉めていると、中也が声を掛けた。太宰は今日、ヴィオラではなくヴァイオリンを弾いていたのだ。中也でさえ、幼少期を除いて太宰がヴァイオリンを弾いている姿を見るのは殆どなかった。戯れにヴァイオリンを一緒に弾くことはあっても、長時間の演奏は避けているようだった。この前の演奏会で、太宰は再びヴァイオリンを人前で演奏した。今まで頑なに避けていた楽器を演奏する選択をするのは、簡単には出来なかっただろう。また一緒にヴァイオリンを演奏出来て、中也は嬉しい気持ちもあったが、太宰に辛い思いをさせているのではないかという不安もあった。だから演奏会の後も、なかなか自分から「一緒にヴァイオリンを弾こう」とは云い出せなかった。
「心配かけたね」
「ったく。今日も持っていく楽器ケース間違えてるんじゃねェかと思って、本当はドキドキしてた」
「織田作の墓参りだもの。やっぱりヴァイオリンじゃないとね。ねぇ? 織田作」
その時、太宰の問い掛けに応えるように風が吹いて木々を揺らした。葉同士が触れてザワザワと音がする。
「織田は喜んでるみてェだし、それならいいか」
「そんな風に聴こえた?」
「俺はそう思う」
「中也がそう云うなら、きっとそうだね。さて、そろそろ帰ろうか。また来るよ、織田作」
ふたりは荷物をまとめて墓場を後にする。線香の煙が真っ直ぐと、天に向かって昇っていた。