留学してしばらく経ったある日のこと、太宰は中也の練習を眺めていた。こっそりと。いや、こっそりというのはあくまで雰囲気である。廊下を通りかかったら、練習室のドアの小窓から中也の姿を見かけたのだった。少し邪魔してやろうと思って堂々と入った太宰だったが、中也は練習に集中しきっており、気付いてもらえなかったのだ。それで太宰はいつ気付いてもらえるかと待っていた。しかし、一向に気付いてもらえずに居た。それならいっそ中也の練習を見学させてもらおうと思い、見ていたのだった。
中也は練習している姿を見せたがらない。小さい頃からずっとそうだったが、ふたりが恋人という関係になった今でさえそれは変わらなかった。太宰は躍起になって見ようとした時もあったが、毎回中也に部屋から追い出されてしまうのでついに諦めた。だから太宰は、こんな形で願いが叶うとは思っていなかった。
改めて、太宰は恋人を見る。ヴァイオリンを構える姿は、背筋がピンと伸びている。弓を構える手。細い指先に視線を走らせる。よく手入れされているのがここからでも分かる。手は随分と大事にしているようで、普段は手袋をいつもはめている。爪もいつも少し短めに保たれているし、ヤスリまでかけてマニキュアを塗っている訳でもないのにピカピカしている。きれいな手だ。小さなクセして、小柄さを全く感じさせない堂々と力強い演奏。中也の演奏はただ力強いだけではなく、軽やかさもあった。中也はこうでなくっちゃと思いながら聴く。
今中也が練習しているのは、モーツァルトのセレナーデ第7番 K.250の4楽章だ。アレグロのテンポで駆け抜けていく。ただ、まだ粗削り感が否めない。これから詰めていくのだろう。
中也は一通り弾き終わると、今度はメトロノームをつけて練習し始めた。先程崩れていた所を中心に、遅いテンポだけれど正確に演奏する。そして、リズムのパターンを変えながら練習していく。何度も繰り返すうちに形になっていった。テンポも次第にあがっていき、完成に近づけていく。次は同じフレーズを、ニュアンスを変えながら演奏し始めた。しっくりくるまで、丁寧に取り組んでいるようだ。
注目したいのはその表情だ。集中してきるからなのか、出来ないと口には出さないものの眉間にシワが寄っているし、今にも悪態をつきそうだ。なのに、出来るようになるととても嬉しそうな顔をする。その過程を今何度か見ている訳だ。分かりやすすぎる。ころころ変わる表情に、今は駄目だと分かっていながら、太宰はクスりと笑ってしまった。滅多にない機会なので、もう少し練習風景を見ていたかった。
そういえば、伴奏は誰が弾くのだろう。太宰は頼まれていなかった。曲は何処かで演奏するのだろうか。レッスンの一環だろうか。太宰は、自分以外の誰かと中也が演奏するのは演奏者としてであれば見てみたいと思った。しかし、恋人としては少し嫉妬してしまう。個別の技術を磨く為とはいえ、思った以上に中也と演奏する機会がないのだ。そう考えていると、太宰は段々一緒に弾きたくなってきた。そろそろ頃合だろう。
「ちゅーうーやー、いつまでそうしてるつもりだい?」
「げっ、太宰、いつからそこに居た?」
「ウォーミングアップ終わって、通し練習し始めたあたりかなぁ」
太宰は中也の練習の流れを把握しているのだ。
「集中してて気付かなかったぜ」
「うそ」
「は?」
「気付かなかったなんてウソでしょ」
「何でそんなこと分かるんだ?」
「だって、耳が真っ赤だもの。見られるのに耐えきれなかったんでしょ? ふふ、中也は分かりやすいんだから」
「あんまり手前が練習見たいって云うから悪いんだ。あと、途中で笑ったろ」
「あ、バレてた? 表情がころころ変わるものだから、面白くてつい」
「で、どうだったんだよ。俺の練習見て」
「君と演奏したくなった」
「なんだそれ」
「言葉のままさ。ねぇ、練習付き合うから一緒に弾こうよ? 伴奏あった方がいいでしょ?」
「仕方ねェな。今回だけだぞ」
「今回だけだなんて非道い」
「……だって、」
「うん?」
「だって、手前と弾くと忘れられなくなっちまうんだよ。他の奴と弾くと、どうしても手前との演奏と比較しちまう。それに、」
「それに?」
「俺も、手前と弾きたくなるから」
「だから、練習見られるの嫌なの?」
「まァ、出来るだけ完璧な演奏を手前とは……、練習でもしたいからな」
そっぽを向きつつ中也は云った。耳は余計に真っ赤になった気がした。
「じゃあ、練習しようか」
「……明日は、手前の練習見せてくれよ」
「わかった。今日のお礼に見せてあげる。一回通そうか」
「あぁ」
* * *
翌日、中也は練習室を訪れた。太宰が練習している様子を見るのは久しぶりだった。幼少の頃はレッスンの時間が太宰の後だと、練習している姿を少し見ることが出来た。今となっては見る機会がなかなかない。だから、たまにはいいかと思って中也は提案した。自分自身の参考になるところもあるかもしれないと、期待もしている。
太宰は軽くアップしたところで曲を練習し始めた。昨日と同じ曲だ。初見であれだけ弾ければ充分なのではないかと思うが、太宰からしてみればまだ未完成なのだろう。
暫く聴いていると、ミスタッチしたところを徹底的に練習していることがわかった。何度も何度も同じフレーズを繰り返す。少しでも間違えたり気に入らない所が出てくると、また最初に戻って弾いていた。中也にとってこれは意外なことだった。あの太宰がきちんと練習している。中也の中で、太宰は常に天才であり完璧だからだ。練習なんてあまりせずに、すぐに出来てしまうとばかり思っていた。今すぐに話しかけたい気持ちを抑え、練習の様子を見続ける。次第にミスも減り、段々曲に表情が付いてくる。曲が通る頃には、曲が正しく完璧に仕上がっていた。そろそろ話しかけてもいい頃だろう。
「いつもこんな感じなのか?」
「うん、ずっとそうだよ。意外でしょ?」
「まさか本当に完璧になるまでやるとは思ってなかった。手前のことだから、何でもあっさり出来るかと思ってたぜ」
「ある程度は出来るんだけどね、完璧を目指すとやっぱり練習しなくちゃ駄目なんだよ。そしてそれが、私に求められているクオリティなのさ。ところで中也、今日も耳が真っ赤だけどどうしたんだい?」
「それは、」
「それは?」
「……手前に見惚れてただけだよ畜生!」
「私、そんなに格好良かった?」
「これ以上云わせんな!」
「ねぇ、ちゃんと目を見て云って欲しいんだけど」
と優しくて低い声音で云うと、太宰は中也の顔に両手を添え真っ直ぐ見つめた。中也はこの声に弱かった。抵抗出来ない。
「……っ!」
「ほらほら、云って?」
「……かっこ、よかった、ぜ」
耳どころか顔から湯気が出そうなほど赤くなった中也が云う。
「よくできました!」
太宰は中也の額に唇を落とし、中也を抱き締めた。
その後、練習室からは楽しそうな音楽が聞こえてきたとか。