コンサート・マリアージュ

2021.08.29

 ある晴れた日、中也はチケットを持って家を出た。それは演奏会のチケットだった。今日は太宰のソロリサイタルの日なのである。リサイタルがあるということは本人からも聞いていたし、こっそり入会している太宰の支援会——もとい、ファンクラブの情報で知っていた。太宰という男は演奏も出来るがそれ以前に顔がいい。演奏会にオペラグラスを持参するファンも居るくらいだし、圧倒的に女性ファンが多い。演奏会は生演奏はもちろん本人の顔を見ることが出来る、またとない機会なのだ。太宰と知り合ってからというもの、幼少の頃から中也は太宰の演奏会に出来るだけ行くようにしていた。目標にしたい演奏家の演奏会に足繁く通うのは、当然のことだろう。
 会場に到着し、中也はゲートのスタッフにチケットを渡す。チケットをもぎられ、アンケートや他の演奏会のチラシが入った袋を渡された。いつもの流れだ。今回の会場は太宰が演奏するには比較的小さく、いつも以上にチケット獲得の難易度が高かった。太宰と中也の仲なのだから、中也は太宰からチケットを貰うことも出来た。太宰からも「チケットあげるよ?」と云われたことだってある。しかし、中也とて音楽家の端くれだ。自分が聴きに行きたいから聴きに行くのだ。その意志があるからこそ、料金は支払うべきだと中也は思っている。太宰の演奏は、その料金を払うだけの価値を十分に持っていた。いつも支援会の抽選から先に行われるのだが、3次抽選まであったにも関わらず落選した。粘り強く一般の抽選にも応募し、なんとかB席のチケットを手に入れたのだった。
 強運だったのか、今まで5段階中上から2番目の席(1番良い席は流石に関係者でないと買えない)に当たることが多かったので、今回の席はいつもより随分遠く感じた。それを予想して、今回はオペラグラスを持参してみたのだった。ケースから取り出し、試しに覗いてみる。視界は狭くなるが、伴奏用のピアノの鍵盤もはっきり認識出来た。これはすごい。太宰が立つ側の譜面台にピントを合わせ、開演を待つことにした。

* * *

 ブザーが鳴り、照明が暗くなった。いよいよ開演だ。太宰が舞台下手から入場してくる。肉眼では豆粒程の大きさでしか見えない。今回の衣装は珍しく燕尾服にしたらしい。太宰は身だしなみに対して基本的に興味がないらしく、衣装も特にこだわっているという様子はない。大抵は白のワイシャツに黒のスラックス姿だった。季節によって、ジャケットを羽織る時もある。それだけで様になってしまうのだから、憎いことこの上ない。今回のように一張羅で演奏するのは珍しいことだ。恐らくこの演奏会のチケット倍率を知った太宰が、ファンへのお礼を込めてこの衣装を選んだのだろう。自由気ままに演奏活動をしていそうな太宰ではあるが、これをビジネスと知ってのことか、それともただの気まぐれか、長年連れ添ってくれたファンを置いていかないようにそれなりの配慮はしてくれるのだ。女性客が殆どを占めるが、その年代層は幅広い。一度魅力を知ってしまうと、もう離れられない。まさに魔性である。
 太宰がお辞儀をし、楽器をゆっくりと構えた。ピアノの前奏の後、始まったのは「愛の挨拶」だ。優雅で優しいヴィオラの音色がホールをいっぱいにしていく。暫く演奏を聴いていたが、そろそろオペラグラスを使おうと思いレンズを覗きピントを合わせた。
 ——なんだこれ。
 中也は思わず息を呑んだ。今日の太宰はいつもと違う。黒々とした蓬髪は片側だけ整髪料をつけて整えてあり、いつもは隠れている片耳が出ていた。一張羅の燕尾服は云うまでもなく似合っている。長身を最大限活かすように、スラリと長い脚が強調されている。曲に合わせて体が動いた時に少しだけ揺れるテール部分が、優雅さを更に引き立てていた。こんなの、格好よすぎるではないか。視線を上にやると、ホワイト・タイがちらりと見えた。肉眼では見えなかっただろうが、タイの端に白い糸で小さく「双黒」と刺繍がしてあるのを見つけてしまった。中也は息が止まりそうになった。このタイは、デュオの時の衣装でいつも使用していた。太宰個人が元から持っていたホワイト・タイもちゃんとあるはずなのだ。中也は「彼奴が帰ってきたら問い詰めてやろう」と決意したが、暫くはオペラグラスを通して見える太宰に集中しようと思った。オペラグラスを持参するファンの気持ちがやっと理解できた。視線を更に上へ移動させ、顔を見る。音楽に入り切った時の、真剣な顔だった。しかし曲のせいもあり、今は少し柔らかい表情だ。ふ、と微笑む太宰とオペラグラス越しで目が合った気がした。「ここ、2階席だぞ。そんなはずはない」と思いながらも一瞬見せたプライベートでしか見せない表情に、ドキりと胸が高鳴った。

* * *

 終演後、オペラグラスのおかげでいつもと一味違う演奏会を楽しんだ中也は席を立ち、帰宅しようとホールを出た。すると、スタッフに呼び止められた。
「あの、中原様でしょうか?」
「あァ、そうだが」
「太宰様が楽屋でお待ちです」
「わかった。行くから案内を頼めるか?」
「畏まりました」
 スタッフに案内されながら「なんだ彼奴、俺が来ること知ってたのか?」と疑問を抱きつつ、楽屋の扉の前に到着した。
「こちらが太宰様の楽屋でございます」
「案内、ありがとな」
 中也が礼を云うとスタッフは頭を下げて去っていった。扉の正面に向き合い、ノックをする。
「おい太宰、俺だ」
 するとガチャリとドアが開き、太宰が顔を出した。
「あ、来たね中也。どうぞ中へ」
 招かれるままに中也は楽屋の中へ入った。ドアを閉め、太宰の方を向いた中也の視界に広がったのは、今日散々見惚れていた燕尾服姿の太宰だった。一瞬体が硬直してしまったが、全身を改めて観察した。どうしたって格好いい。
「この衣装、私にしては珍しいでしょう? どうかな、似合ってる?」
「手前まさか衣装の感想を聞く為だけに、俺を呼びつけたのか?」
「えぇー、違うよぉ。オペラグラス越しの熱烈な視線を感じたから、至近距離で見たいかなと思って。この後着替えちゃうしさ」
「となるとそもそも手前は、俺がこの演奏会に来ることを知ってたってことになるよな?」
「だって中也さ、チケットあげるって云っても貰ってくれないじゃない。だから、私が出来ることはさせてもらっていたんだよ。君は不本意かもしれないけれど。君は小さなころからずっと私の演奏会に来てくれているからね。だからそろそろ、特等席に招待させておくれよ」
 そう云って太宰が手渡してきたのは、次の演奏会のチケットだった。座席は一番上のグレードで、しかもど真ん中。まさしく特等席だった。
「おい太宰、手前は分かってるだろうが、俺は自分でちゃんと自分のチケットを用意するぜ。それでも押し付けるって云うなら、ちゃんと代金は払う」
「君ならそう返してくると思っていたよ。それなら、迷惑料ということで貰ってくれないかい? 私からチケットを貰うのは、迷惑なんだろう?」
 負けた、と中也は思った。迷惑料ときたか。何とか断る術を探してみたが、貰う以外の選択肢は残されていなかった。
「チッ、迷惑料って云うなら仕方ねェ。分かった。行かせてもらうぜ」
「うんうん。分かってくれたのなら嬉しいよ。ところで、衣装の感想も聞いておきたいんだけど」
「そんなの、最高に決まってるだろ」
 中也はずい、と太宰の目の前に立ち、長身を見上げながら云った。それを聞いて、満足そうににこりと笑った太宰はこう云った。
「ありがとう。君のために燕尾服を着た甲斐があったよ」
「俺のため?」
「恋人だというのにいつも健気に自分でちゃんとチケットを手に入れてくれる、君へのプレゼントさ。君は大方、いつも来てくれているお客さんのためにこの服装を選んだと思っているんだろうけど。その証拠に見えた? タイの刺繍」
「そうだそれだ! 手前、わざわざ双黒の時のタイにしやがって! ……なんか恥ずかしいだろ」
 このタイは、中也が太宰に贈ったプレゼントだった。双黒の演奏時に着用するものなので、同じデザインのタイを中也も持っている。要するに、お揃いのホワイト・タイだった。
「別に、双黒の演奏会の時だけじゃなくてもいいよね? 私が中也から貰ったものだし。嬉しくはなかったかい? これも迷惑だった?」
 太宰は中也の腰をそっと抱き寄せた。引き寄せられた中也は、太宰の胸にこつんと頭をもたせかけ、腰に腕をまわした。
「太宰のばぁか。嬉しいに決まってるし、燕尾服が似合いすぎて心臓止まるかと思った。だから」
 中也は顔を上げ腰にまわしていた腕を解き、燕尾服の襟をグっと引き寄せ太宰に口付けた。
「もう他の奴には、その服装見せないでくれ。俺からのお願い、聞いてくれるか?」
「そんな熱烈に頼まれちゃあ、聞かざるを得ないねぇ」
 今度は太宰からちゅっと口付けて、名残惜しげに離れる。
「打ち上げはほどほどにして早く帰ってこい。シャンパンとつまみ、用意してやるから」
 中也は赤面しながらそれだけ云うと、颯爽と楽屋を出ていった。残された太宰はひゅう、と口笛を吹いた。基本的に男気のある中也だが、自分から求めることが苦手なのだ。だから太宰は、その気持ちを伝える手助けにと共通の合言葉を作った。恋人としての営み——はっきり云ってしまうとセックスをしたい時、中也の好きなワインではなく「シャンパン」を使って伝えてくれと云ってあったのだ。
 「喜んでくれたし帰った後の楽しみも出来たしよかったな」と思いながら太宰は燕尾服を着替えるのだった。はなうたに今日演奏した、「愛の挨拶」を一緒に添えて。