雨の日に

2018.1.26

「……さて、今日も練習に行くか」
 講義が終わり、中也は部室に向かおうとしていた。太宰と試験で演奏する曲を練習するために。ここは音楽大学。流石に練習室はたくさん用意されている。しかし、使用時間が決められていて不便だったので最近では部室が練習場所になっていた。部室は空調も整っており、太宰が集めた本やCD、オーディオは勿論のこと、おまけにアップライトのピアノだって置いてある。名目上は研究系のサークルで、部員は3人しかいない。中也と太宰と、「誰か」である。中也は「誰か」が誰なのか知らない。太宰がサークルを作るために、名前を借りたらしいのだ。そんなわけで実質部室を使うことが出来るのは太宰と中也だけだった。時間を気にせず使えるだけで有難い。学内には棟がいくつもある。今いる教室から部室棟へ移動するには、屋外を歩かなくてはならなかった。今日は生憎の雨。中也は傘を広げ歩き出した。
 部室のドアの前まで来ると、僅かにピアノの音が聴こえた。流石の太宰も防音の部室は借りられなかったようで、ごく普通の壁なのだ。だから室内で楽器を演奏すれば、当然音が聴こえてしまう。尤も、部室の左右の部屋は空き部屋なので、金管楽器はともかくピアノや弦楽器くらいなら気にする必要はなかった。中也は何か練習しているのかもしれないと思い、そっとドアを開ける。聴こえてくるのは、八分音符の伴奏。それは今日のようなしとしと降る雨を連想させる――
「『雨だれ』か」
「おや、中也。来たね」
 中也に気付いた太宰が云った。
「今日が雨だから『雨だれ』を弾いていたのか?」
「それもあるのだけれど君、まだ私が選んだヴァイオリンを使ってくれているじゃないか」
「だから何だ?」
「この前の練習で君の楽器を見たから、つい思い出していたんだよ。覚えていないかい? 楽器を選んだ時のこと。あの日も今日みたいに雨が降っていたんだよ」
「あァ、確かに雨だったな」

* * *

 ――中学1年の6月、中也はヴァイオリンを新調することにした。壊れたわけではない。楽器のサイズを大きいものにするためだ。要は、今まで子供用を使っていたのだ。ヴァイオリンには指が届かない子供でも演奏できるようにサイズがある。一般的に大人が使っているヴァイオリンを一として、2分の1や4分の1などのサイズがある。成長に合わせて楽器を変えるのだ。買い替えは中学に入学する前でもよかったのだが、小学校の卒業式やら通っている音楽教室の発表会などで時間がなかった。中学に入学して、落ち着くのを待っていたら6月になってしまったというわけだ。今まで楽器を買う時は音楽教室の先生と選んでいたのだが、今回は折角大人サイズになることだし、自分で選ぶことにした。親には予算の上限だけ聞いた。しとしと雨が降る中、一人で馴染みの楽器店に足を運んだのだった。店のドアを開ける。ドアの上部に付けられた鐘がカランコロンと鳴る。いつもの風景だ。
「いらっしゃいませ」
「あの、今日ヴァイオリンの試奏の予約をしている中原ですが」
「中原様ですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
 予約をしてあったからか、すぐに試奏用の部屋へ通された。部屋に入ると、既に何台ものヴァイオリンが置かれていた。メーカーも作られた国もバラバラな楽器たち。正直な話、楽器のメーカーについては調べていなかった。特にこだわりがなかったからだ。しらみ潰しに弾けば、ピンとくるものがあるはずだ。そうして、中也の楽器選びは始まった。
 そして2時間後。中也の求める音色が出る楽器はまだ見つからない。かれこれ15台は試しただろうか。最初は店員も一緒だったのだが、時間が掛かりそうと分かったので一人にしてもらった。時折楽器を出してもらうために呼び、確実に気に入らなかった楽器を片付けてもらい、また別の楽器をだしてもらう。片っ端から弾いていった。店内にはまだまだ弾いていないものがある。だんだんと疲れてきた。次はどれを試そうか考えていると、カランコロンと音が聞こえた。ドアの方を見やるとそこには太宰がいた。中也に気付いたようで、こちらに向かってくる。
「君、何してるの?」
「見れば分かるだろ。楽器選んでるんだよ」
「森先生は一緒じゃないんだね」
 森とは、中也が通っている音楽教室の先生である。
「俺一人で選びたかったんだ」
「ふーん。で、いいのは見つかった?」
「今んとこ見つかってない」
「メーカーはどこがいいとかないの?」
「ない。直感で選ぼうと思って」
「君、こんなに数があるのに片っ端から弾くなんて、馬鹿じゃないの?」
 太宰は盛大にため息を吐いた。
「なんだと……?」
 中也はカッとなり太宰に寄りかかる。
「君もこれだけ試したのならうすうす気が付いていると思うけれど、君が買える値段の楽器なら、高いもの程良い音色がするはずだよ。だから予算ギリギリの楽器をひとまず検討してみたらどうだい」
 太宰の云うことは尤もだった。確認してみると、中也がひとまず候補に入れた楽器はどれも予算ギリギリの価格だった。店側に予算も伝えてあるので、大きく外れる楽器はここにはないはずだ。
「で、太宰は何しに来たんだよ」
 云われた通り、同じ価格帯の楽器を探しながら云う。
「私? 弓の張り替えとあとは弦を買いに」
 太宰は楽器ケースを背中に背負っていた。
「そういえば、太宰は楽器買わないのか?」
「私はね、今探し中なんだ」
 目が出るほど高い楽器なのだろうと中也は想像した。そして同じ価格帯の楽器を並べ終え、早速順に試していった。ところが、
「これは音に深みがない」
「こっちはなんだか中也が弾くにしては上品すぎる」
「あっちは響きすぎ」
 中也が選んでいたはずなのだが、気が付けば太宰が口を挟むようになっていた。太宰は背負っていた楽器ケースを床に置き、選ぶことに徹している。
「……太宰、俺の楽器なんだけど。あと、さりげなく失礼なことを云うな!」
「中也、あと何台残ってるの?」
「俺のことは無視かよ」
「いいから。あとどれだけなの?」
「えーと、あと3台」
「早く、次弾いてみてよ」
「……わかった」
 中也はこうなったら委ねるしかないと思い、ヴァイオリンを試していったのだった。

 地道に比較を続け、そして、何とか3台まで絞った所だった。
「中也、取りあえずここまで絞ってはみたけれど、この3台のどれかでピンときたのはあるのかい?」
 太宰が客観的に意見を云ってくれるおかげで、だいぶ自分の求めている音色がわかってきたように思う。中也は考えた。これらの音色は自分の理想の音色の一片を持ってはいるが、すべて理想通りかというとそうではなかった。正直に云うと、どれもピンときていない。「……太宰、悪ぃけど、どれもピンときてないんだ」
 中也は太宰に正直な気持ちをそのまま伝えた。
「……、ちょっと待ってて」
 少し考える素振りをすると、太宰は部屋を出て行った。もう店の楽器は弾きつくしたはずだ。何か考えがあるのだろうか。暫くすると、楽器ケースを持って帰ってきた。
「まだあったのか」
「うん。これ弾いてみてよ」
 中也は早速楽器ケースから出し、少しドキドキしながら弾いてみる。……これは。力強さの中にもしなやかさがあってうつくしい。まさに、中也がイメージしていた音だった。
「太宰、これ……!」
「これなら良さそうかい?」
 太宰もどこか嬉しそうだ。
「このヴァイオリンがいい!」
「そのヴァイオリンはね、――私のなんだ」
「え? 太宰の?」
「正確に云うと、買うか迷ってる楽器なんだ。ひとまずキープということで取り置きしてもらってる」
「……いいのか? 俺が買っても」
「いいよ。中也の方がこの楽器に相応しいみたいだし。キープしてるのはまだ他にもあるしね。それでね、ひとつ問題があるんだけれど」
「なんだ?」
「この楽器ね、100万するの」
 ここで云っておくと予算は50万、どうしてもこれがいいといっても限度はせいぜい70万くらいだろう。予算の倍もする楽器を、買ってもらえるのだろうか。中也は自分がまだ中学生ということを呪った。
「それなら買えねェ……」
「あきらめちゃうの?」
「だって、予算の倍するし。俺の家は太宰んとこみたいに金持ちじゃねェんだよ」
「これを逃したら、もう自分の理想の楽器には出会えないかもしれないんだよ?!」
 中也はだんだん泣きたくなってきた。
「そんなことは分かってる。でも、金だけはどうにもできないだろ?! ……って、なんで太宰が泣きそうになってンだよ……」
 太宰は目に涙をためて、今にも泣きだしそうだった。
「ちゅうやの……ばか……」
 これが一番だってわかってるくせに、と嗚咽まじりに云う。太宰の瞳から涙がこぼれ落ちた。泣かれてしまって中也は焦る。どうすればいいか分からない。おろおろしていると、太宰が急に立ち上がった。
「おい、どうし」
「ちゅうやのりょうしんに、はなしてくる」
 太宰は涙をぬぐい、鼻水をすすりながら云う。顔はぐちゃぐちゃだった。
「は?」
 突然の宣言に、中也は混乱した。太宰は自分の楽器ケースや鞄を置いたまま、店を飛び出した。

「おい、太宰!」
 中也が私を呼ぶ声が聞こえる。追いかけてきたようだ。走りながら太宰は思考する。最初はただの好奇心だった。中也がどんな楽器を選ぶのか気になったのだ。しかし、試奏しているのを聞くうちにどの楽器も彼には相応しくないと思ったのだった。そして、自分がキープしている楽器が合うのではと思い始めた。奏者にとって楽器の存在は大きい。奏者自身が納得できる楽器を使うのは、大切なことだ。目の前にぴったりの楽器があるのにそれを手に取らないことが、太宰にとっては信じられなかった。太宰にも中也があの楽器を弾く姿がありありと浮かぶ。弾かせてみて推測は確信に変わった。最適解だ。だのに、中也はこの楽器を買えないと云う。そう云われた時、太宰はとても悲しかったし、怒りも湧いてきた。同時に、自分の選らんだ楽器が中也にぴったりだったことが嬉しかった。言葉に出来ないぐちゃぐちゃとした感情に苛まれて、気が付いたら涙が出ていて、走り出していた。何だろう、この気持ちは。そんなことよりも、あの楽器を手に入れなければならない。中也のために。 太宰は雨の中を走って行った。

 太宰が店を飛び出してどのくらい走っただろうか。思っていたより太宰の足は速かった。目的地は分かっていた。中也の家である。今日は休日なので、両親はふたりとも家にいる筈だ。そろそろ家に辿り着く。太宰がインターホンを押す姿が見えた。母が出てきている。
「あら、治くん。こんなに濡れてどうしたの?」
「……中也の、楽器のことで、相談が、あるんです」
 走ってきたので息を切らしながら太宰が云う。
「それは、どういう……」
「だざいっ」
 中也は漸く追いついた。
「太宰、もう、楽器のことはいいんだ……。母さんごめん、何でもねェよ」
 中也は、家族に迷惑をかけたくなかった。両親は音楽が特に好きというわけではなかったが、中也が音楽を習うこと、音楽が好きなことに対しては理解があった。レッスン料や楽器の買い替えの料金も、小さい頃から払ってくれている。何かとお金がかかる趣味なのに、嫌そうな素振りを見せたことは一度もなかった。そんな両親に、こんな我儘を云うなんて出来ない。
「そんなの嘘だ! あの楽器がいいって、中也は云ったじゃないか! なんですぐあきらめようとするの?」
 普段は冷静な太宰が、この時ばかりは興奮していた。すごい剣幕だった。
「ねぇ、答えてよ?!」
「それは……」
 ピリピリとした空気が流れる中、沈黙を破ったのは中也の母だった。
「……中也、何かあったら相談しなさいっていつも云っているでしょう? それに治くんも少し落ち着こう? 話を聞くわ。さぁ、中に入って」
 リビングにあるソファにふたり並んで腰掛ける。ひとまずお茶を渡され、口を付ける。ふたりは少し落ち着いてきた。「それでふたり共、何があったの? 中也は楽器を選びに行っていたわよね」
 中也と太宰は顔を見合わせ、ぽつりぽつりと話し始めた。楽器を選んでいたら太宰が来て一緒に選んでくれたこと。3台まで絞り込んだけれど、中也が納得しきれていないこと。太宰が取り置きしていた楽器を弾かせてもらったこと。その楽器を気に入ったこと。そして――
「……その楽器が、実は……、100万円するんだ」
 あぁ、ついに云ってしまったと中也は思った。一体どんな反応をされるのだろう。中也は両親に音楽以外であれがしたい、これが欲しいなどと我儘は云ってこなかった。中也にとっては音楽を続けることそのものが我儘なのだ。
「お願いしますっ、中也にこの楽器を買ってあげてくださいっ!」
 太宰が頭を下げる。
「……中也、この楽器、本当に欲しいのね?」
 本当に欲しいなどと云ってもいいのだろうか。しかし、中也にもこの楽器しかないということは分かっていた。覚悟を決める。
「そうだ。母さん、俺はこの楽器が欲しい。この楽器しかないんだ」
 中也の母は少し考える素振りを見せるとこう云った。
「……中也がわがまま云うなんて、いつぶりかしら? あなたはもっと、わがままを云ってもいいのよ。じゃないと、母さんと父さんがふたりで働いている意味ないじゃないの」
「買ってくれるのですか?!」
 中也よりも先に太宰が反応する。
「えぇ。中也が本気で欲しいというのなら。本気でやりたいことをやりなさい。あなたにとっては、きっとそれが音楽なのよ。……治くんも、ありがとう。中也のためだったのでしょう? 普段は落ち着いているもの。余程のことだと思ったわ」
「おばさん、先程はすみませんでした」
 思い出したように太宰が云う。
「あっ、そういや荷物置きっぱなしだ! 店員さんに何も云わず出てきたんだったぜ!」「まぁ! それならはやく戻りなさい。きっと心配しているわよ」
 そして父の傘を渡され、ふたり来た道を戻るのだった。
 店に着き、心配していた店員に事の顛末を話した。購入のための準備があるからと店員が試奏の部屋を出て行った時だった。太宰が徐にケースからヴァイオリンを取り出し、眺めたかと思うと口付けたのだ。弓にも同じように口付ける。その姿はとても綺麗で、中也は何かいけないものを見てしまったような気持ちになった。
「だ、ざい……?」
「この楽器は私のものだったから、最後にと思って。後はおまじない、かな」
「まじないって、何の?」
「君がこれから上手くいくように、かな……?」
「なんで疑問形なんだ?」
「うーん、私にもわからないや」
「なんだそれ」

* * *

 ――これがふたりの、中也の楽器を巡る物語。

「君のご両親には、感謝しなくてはね」
「あァ、本当にな。この『相棒』でなければ、俺はきっとここにはいないだろうぜ。それに太宰、あの時は云えなかったけれど、一緒に頼んでくれてありがとう」
「何? いきなり改まっちゃって」
「癪だけどよぉ、太宰がいなかったら俺はここまで来れなかったんだよ。あの時、俺はこの楽器を買うことを最初から諦めてた。何もしねェで。でも、手前が親に頼んでくれて、足掻いたおかげでコイツは手に入った。それで、俺は足掻くことを学んだんだ。足掻き続けた結果が今だ。だから、手前のおかげなんだよ。分かったか」
「わかったわかった。じゃ、そろそろ練習しよっか」

 ――私の気も知らないで、と太宰は練習の準備をしながら思う。あの時のぐちゃぐちゃした感情の正体を知ったのはつい最近である。俗に云うと恋心だ。それには少々黒い感情も交じっているようではあるが、太宰にとってはそれが恋なのだ。あの時から中也に恋をしていたと思うと、随分と拗らせている。私をどうしてくれるんだ、この相棒は。なんとも云えない微妙な距離を縮めようと、行動してはいる。漸くふたりで演奏できることになった。しかし、距離は少しずつしか縮まらない。太宰はじれったくて仕方がなかった。いっそ気持ちを吐き出してしまえばスッキリするのだろうが、それをするにはまだ自信がない。ふたりで演奏する機会が出来てしまったし、今はそれで楽しいから。この関係を、今は壊してしまいたくない。結局地道に詰めていくしかないのか、と太宰は思うのだった。

 ――その均衡が崩れるまで、あとわずか。