「あー、疲れた疲れた。中也、そろそろ休憩しようよ」
伸びをしながら太宰は切り出した。
「太宰、話は終わってねェぞ!」
ある日の昼下がり、アパートの一室で1週間後に控えた演奏会の練習をふたりはしていた。
「とにかく疲れたから、休憩っ! 君と言い争ってたら埒があかないからね」
太宰は休憩を決め込んだらしい。キッチンに向かい、湯を沸かし始めた。ドリップコーヒーを作るためだ。中也が後を追う。
「いちいち突っかかってくるのは手前だろうが……!」
練習は9時頃からしていたが、昼食を食べた後から次第に太宰の集中力が切れていった。集中力が切れると、太宰はいつも中也に妙な問い掛けをしてその反応を楽しむのだ。悪い癖である。今日も太宰は例の如く中也に質問をしていた。内容は「32小節目と33小節目のフレーズの間はどの程度が相応しいか」だ。文字にしてみると一見まともに見える。しかし、この部分は曲全体からしてみると重箱の隅をつつくような、極わずかな所なのだ。テンポを大きく揺らしたり、リタルダンドが掛かったりするわけでもない。テンポ通りに演奏すればよいのだ。彼らはデュオなので、正直な話ふたりで揃っていればどうにでもなる部分だ。太宰が講義よろしく説明し始めるとやけに説得力があって、中也は結局聞かざるを得なくなる。いつものパターンだ。太宰の気分は気まぐれで、いきなり質問を投げつけ、そして勝手に終わる。それに理不尽な思いしかしない中也が怒りだし、云い争いになる。極稀に、云い争いが議論になって思いもよらない収穫を得ることもあったりなかったり。ともかく、ふたりの間には太宰が一方的に仕掛けてくる、しかも気まぐれな喧嘩が絶えない。
「はい中也、カップ。えっと……確かこの辺に……クッキーがあったはず」
腕を伸ばして高い位置にある戸棚からクッキーの缶を取り出しながら太宰が云う。
「おい、そのクッキーそんな所にあったのか。この前食おうと思ったら見当たらなかったんだよ」
「これは、棚の一番高い所にしまっておいたんだよ。あれぇ、もしかしてちっちゃいから見えなかった?」
太宰がやけににやにやしながら云う。
「身長のことは関係ねェ! 手前、これが俺のお気に入りクッキーだと知って隠しただろ?!」
「隠してなんかいないさ。ただ君が見つけられなかっただけだよ」
そうこうしているうちに湯が沸いたので早速ふたり分のコーヒーを淹れ、クッキーを皿に盛りつけた。そしてふたりでダイニングに移動した。
「あと一週間だね」
太宰が中也お気に入りの苺のジャムが乗った可愛らしいクッキーを摘まみながら云う。そう、双黒の演奏会まであと一週間なのだ。
「長かったようであっという間だったよな」
「一緒に演奏し始めてからは本当に日々が早く過ぎ去っていたと思うよ」
「それまでは遅かったのか?」
「うーん、そうなのかもしれない。なんと云うか、君に片想いしていた時間が長かったことに気が付いてね、もう少し早く気付いてあげていたらなと思うのだよ。我ながら」
「俺なんて気付いたの大学2年の時だぜ……。それまで太宰のことは憧れで目標としての存在だけだと思っていたからな」
でも、と中也は続ける。
「一人の時間もあったからこそ、今を楽しめるんだと思うぜ」
「……なんだか君らしいね。今だからこそ思うのだけれど、私はもっと君を独り占めしたかったなぁ」
「なっ……! 今だって充分じゃねェか」
「今はこうして君を独り占めできるけど、私は過去の私に満足できないのだよ」
太宰はそう云うと、椅子からゆるりと立ち上がり、中也の座る椅子の背ごと、後ろからふわりと抱き締めた。そのまま中也の顔に手を添え、斜め後ろに誘導するように動かす。中也は引き寄せられるままに身体ごとを斜め後ろに顔をひねる。やがて、太宰と目が合った。口付けされると思い、目を瞑る。顔が近づいてくる気配を感じ、触れるまで後数センチというところで
ピンポーン
とインターホンが鳴ったのだった。
「……なぁんだ、おあずけか」
良い雰囲気のところを邪魔されて、不貞腐れた様子の太宰がインターホンに向かっていった。
暫くすると20センチ角ほどの大きさの箱を抱えた太宰が戻ってきた。どうやら宅配便だったらしい。
「……森先生から私たち宛にだったよ。まったく、私と中也の時間を邪魔してくれちゃって」
「で、中身は何なんだよ?」
「うーん、わからないや。今開けてみるね」
太宰がカッターナイフでガムテープを裂いていく。箱を開けてみると、すぐに手紙が出てきた。手紙を取り出すと保護材に埋もれて、更に箱が入っている。まずは手紙の封を切った。
「どれどれ……」
―――中原くんと太宰くんへ
こんにちは。元気にしているかな?私は相変わらずだよ。この前エリスちゃんにぴったりな洋服を見つけてね、白いドレスなのだけれど。デザインが気に入ったはいいのだけれど、白といえばほら、ウェディングドレスみたいでしょ? それでなんだか淋しくなってきちゃってね。親心というかなんというか。そう思うくらいなら買わなくてもよかったと思うよね? でもデザインが本当に気に入ったんだ。迷った挙げ句、ちゃんと買ってきたよ。もし帰国するなら見てやってほしいな、なんて思っているのだよ。
……あぁ、ごめんね。つい本題からずれてしまったよ。書きたかったのは決してエリスちゃんのことではないよ。君たちのことだ。この手紙が届いている頃はもう演奏会も大分近付いているんじゃないかな? 君たちが一人立ち(いや、ふたり立ちかな?)するのは本当に師として嬉しく思っているよ。太宰くんにとっては私はもう師ではないのかもしれないけれどね。いつでも私のところに戻ってきてもいいんだよ? 中原くんはたまに手紙をくれるし、紅葉くんからも話を聞くからねぇ、案外遠く離れている気はしないよ。
君たちがデュオを組んで演奏会をすると聞いた時は吃驚したよ。でも、君たちならとずっと昔から思ってもいた。君たちが出会ったのはいつだったんだろう。いやね、君たちのことを思い出していくうちにたまには手紙でもと思ってね。祝電だと思って読んでくれたらいいし、昔を思い出すのもたまにはいいんじゃないかな。今の関係の君たちなら特に、ね。楽しんでもらえると思うよ。あぁごめん、また話が反れたね。
えーと、君たちが出会ったのはそうか、中原くんが音楽教室に見学に来た時だったっけ―――
「中原くん、これはヴァイオリンという楽器だよ。こちらは太宰くん。4歳だから、中原くんと同い年だね。これからレッスンの様子を見せるからね。質問があれば声をかけてもいいよ。それでは、始めさせてもらいます」
母親にも声をかけ、いつも通りレッスンを始める。最初は楽譜を読む力をつける為、カードに音符を描き、音階名を素早く答えるトレーニングだ。次はリズム感を養うため、カードに描かれたリズムを答えるトレーニング。ここでしまったと私は思った。如何せん、太宰くんが優秀すぎるのだ。何でもスラスラ答えてしまう。音楽が初めての子にこんな欠点のない様子を見せて、ハードルが高すぎやしないか。少しばかり申し訳ないなと思いながら、レッスンを進めていく。
いよいよ演奏のレッスンに入る。曲は「メヌエット」。太宰くんならなんなくこなすだろう。メトロノームをつけ、一緒に演奏する。思った通り、音程が正確な演奏だった。ヴァイオリンで音程を取るのはなかなかに難しい。ピアノやマリンバのような鍵盤楽器とは違い、弦を押さえる位置が僅かにズレるだけで音程が変わってしまう。よって、正しい音程を取れるようになるまでに時間がかかるのだ。最初は目印として指板にシールを貼ることもあるが、太宰くんには必要がなかった。両親が音楽家だからなのか、センスは充分過ぎるほどだ。
中原くんの様子を見てみると、口をぽかんと開けていた。その後、ふるふる震えたかと思うと、こう云ったのだ。
「だざい、ぜったいおいついてみせるから、まってろよ」
今度は太宰くんがぽかんとする番だった。こんな表情、太宰くんでもするんだ。初めて見た。
「どうやら気に入ってくれたみたいだね」
「うん! せんせい、ヴァイオリン、やってみるよ」
―――これが君たちの出会いだ。次は何があったかなぁ……。あ、そうだ、小学4年生の時の発表会があった。覚えているかな? 発表会とはいえ、君たちが初めてふたりで演奏したんだよ。あれは見ていてどうなるかと思ったけれど―――
発表会は毎年4月に行うことにしている。練習は大体半年前から始める。曲目は私が生徒に演奏してもらいたい曲だったり生徒が演奏したい曲だったりする。ソロだけでは物足りないので、生徒同士でグループを組んで演奏してもらうこともある。一人で演奏することだけが音楽じゃないからね。今年も何組かグループを決めてみた。どの組も楽しみなのだけれど、一番気になるのは太宰くんと中原くんのペアだ。楽器を始める前に太宰くんに追いつくと宣言した中原くんは、その宣言通りどんどん上達している。あれ以来なかなかふたりが一緒になる機会がない。そろそろ引き合わせてもいいと思い、ペアにすると決めた。直接私には云ってこないけれど、中原くんが太宰くんを意識しているのは伝わってくる。練習でもいつも必死で頑張ってくれている。素直に嬉しく思う。
太宰くんも相変わらずだ。この前はコンクールで最優秀賞を獲って、業界の中でも注目されている奏者だ。ただ、人見知りで人と関わるのは苦手なみたいだ。だからこそ太宰くんには毎年誰かしらと組んでもらっているのだけれど、なかなか上手くいかない。壁が出来てしまって、上っ面だけ取り繕った演奏になってしまうのだ。あんなに一人では演奏できるのに。だからこそ、中原くんには密かに期待している。
今日はふたりを引き合わせる日だ。上手くいくといいのだけれど。レッスンの準備をしながらふたりの到着を待つ。先に到着したのは、中原くんだった。
「こんにちはー」
「こんにちは。太宰くんがまだ来ていないから、時間までソファーに座ってていいよ」
「先生、曲は決まっているのですか?」
「あぁ、そういえばまだ伝えていなかったね。『きらきら星変奏曲』だよ」
「モーツァルトのですか?」
「流石。よく知っているね。ヴァイオリン2台で弾けるようにアレンジしてあるんだよ」
「きらきら星変奏曲か。楽しみだなぁ」
「こんにちは」
「おや、太宰くん。いらっしゃい」
「こちらが、今年の相手ですか?」
「そうだよ。中原中也くんだ。中原くん、こちらが知っての通り、太宰治くんだ」
「よろしくな」
中原くんが握手しようと手を差し出す。
「……よろしく」
太宰くんは小さな声で云うと握手せずに楽器の準備に取り掛かってしまった。
「ごめんね、彼は人見知りでね」
ムっとしている中原くんに向けて小声で云う。
「あっ、そうなんですか。こちらこそそうとは知らず、すみません」
「ま、ゆっくり仲良くなってくれたらいいと思うよ」
「先生、準備できました」
「早いね、太宰くん。ちょっと待って、すぐに私も楽器出すからね」
楽器の準備が出来ると、チューニングに取り掛かる。ある意味これでペアの相性が分かる。太宰くんの音感に、どこまで中原くんはついていけるのか。チューナーでAの基準音を出してから合わせにかかる。先に合わせ終わったのは太宰くんだ。中原くんも続けてチューニングを終える。
「じゃあ、ふたりでA弾いてみて」
弾かせてみると少しズレているのが分かった。中原くんが少し高いかな。太宰くんがじっとこっちを見ている。いつものことだけれど、違っているから直してもらうよう云ってほしいのだろう。云おうとすると、中原くんがペグを回して音程を調整し始めた。彼の音感は太宰くん程でなくともしっかりしている。太宰くんの音程が正しい。だから、相対音感を持つ中原くんにとっては、むしろ合わせやすいのかもしれない。
「ではもう一度。せーの」
私の合図で弾き始めるふたり。うーん、今度は低くなりすぎたようだ。中原くんもそれは分かっているようで、再び調節し始めた。
「もう一度。せーの」
今度は丁度良さそうだ。太宰くんを見やる。特に文句はないらしい。無表情のまま私を見つめた。続けてほかの開放弦の音もチューニングしていく。チューニングは私が手を出すことが多いのだが、中原くんはひとりで次々とこなしていった。この子なら太宰くんと上手くやれるかもしれない。期待の高まりを感じながら、レッスンを進める。
「君たちが発表会で演奏する曲は、『きらきら星変奏曲』だよ。ヴァイオリン2台で弾けるよう、アレンジをしてある。楽譜がこれだ。どうぞ」
ふたりに楽譜を渡す。
「今日はまず、お手本の音源を聴いてもらうね。それからゆっくりなテンポで弾いてみようか」
音源を聴かせ、弾かせてみようとゆっくりなテンポでメトロノームをつける。
「じゃあ、このテンポで弾いてみようか。……1、2、さんはい」
これがとてもすごかった。悪い意味で。さっきはあれだけぴったりだった音程もくずれ、お互い自分のテンポを譲らないものだから崩壊寸前の状態で演奏は続いて行ったのだった。まぁ最初だし、と思っていたが、練習の回数を重ねてもなかなか揃わない。焦りを感じ始めたある日のレッスンでのことだ。
今日もぎこちない音楽をふたりは奏でていた。回数を重ねる毎に口数が減っていき、ふたりは無口のままレッスンに臨むようになっていた。気がかりなことがある。練習を重ねるうち、曲のテンポがだんだん速くなっているのだ。勿論、最初はゆっくりのテンポで練習していたので、ある程度速くはなる。しかし、目安のテンポより最近では速い演奏なのだ。ふたりの演奏を聴くと太宰くんがテンポを速くしているようだった。太宰くんがわざとテンポを速くすることは今までもあった。どの子と組んでも余裕が有り余っているからか、からかう時があるのだ。悪戯なのだろう。何回もからかうようなら注意するところだが、今まで同じ子に対して何回もすることはなかった。だから気付いていながらも黙殺していたのだ。今回は何回もからかっているようなので、そろそろなんとかせねばなるまいと思っていた頃合いだった。レッスン中、注意しようと口を開きかけたところで、太宰くんが消え入りそうな声でつぶやいたのだ。
「なんで……?」
「どうしたんだい、太宰くん」
「どうして、出来るようになってるの……?」
「太宰くんそろそろ、からかうのをいい加減に、」
「だって! 私がどんなにテンポを速くしても、次のレッスンになったら出来るようになってるんだ。なんで?」
「彼が今までどれほど練習してきたか、君は知っているのかい?」
「……知らない」
「レッスンが終わった後、毎回練習室で夜遅くまで練習しているんだよ。最近ではレッスンがない日も練習していたようだよ。すべては君に追いつくためだ」
「おれ、練習しても太宰……くんになかなか追いつけなくて。考えても結局思い浮かんだのは練習量を増やすことで。そんな姿、見せるのはかっこ悪ぃから先生には云わないでくれって頼んでたんだけどな。ごめんな、なかなかついていけなくて」
照れ臭そうに中原くんが云う。
「ごめんなって……、ばかじゃないの?」
あ、太宰くんが本性を見せた。
「今、何て云った?」
「『馬鹿じゃないの』って云ったんだよ。私はきみのこと、からかってたんだよ?」
「だから何だって云うんだ」
中原くんも喧嘩腰で応える。待って、えぇ、君たち仲良くなるんじゃなかったの? 展開的に。今までの距離を一気に飛び越えて、ふたりの間にはばちばちと火花が散っていた。
「……追いつくまで諦めねぇからな、太宰」
「……どうぞご勝手に」
ふたりともレッスンを進めろと視線を送ってくる。お互いそっぽを向きながら演奏していたが、その演奏は以前より格段に良くなっているのだった。発表会の時までそっぽを向いて演奏していたのは、今の君たちからしたら想像がつかないね。君たちらしいというか、何というか。でも、どの組よりも素敵な演奏だったよ。
―――それからだ。太宰くんが本気で練習し始めたのは。この後のことは私から話すのはどうかと思うから、中原くん君が知りたいなら直接太宰くんに聞いておくれ。中学生になっても高校生になっても、君たちは会う機会こそ少なかったけれどもお互い意識していたのではないかな。中原くんは云うまでもないけど、太宰くんもだよ。
「そういや俺、太宰の過去のこと何も知らねェんだよな。手前のこと、もっと知りたい。発表会以来、何があったんだ?」
「『答えたくない』って云ったら?」
「答えなくていい」
「そんな風に云えるなんて、やっぱり君は優しいね」
「嫌々話して貰う方が胸クソ悪ぃだろ。だからその、別に話したくないなら話さなくても、気にしねェよ」
「いつかは話そうと思ってたんだけどね。……今がその時のようだよ。君の期待に、応えようじゃないか」
「本当にいいのか?」
「君にならいいんだ。……君になら、ね」
―――小学4年生の時の発表会以来、本当に音楽がやりたくなったんだ。森先生も云っていたように、ちゃんと練習するようになった。当時はこの気持ちを認められなかったから知らないフリをしていたけど、やっぱり君のおかげだと思うよ。それで、他の奏者の事が気になりだしてね、コンサートに行くようになったんだ。そこで織田作之助というヴァイオリニストに出会った。天衣無縫な演奏でね、なんとも素敵だったのさ。当時の私にしたら、相当勇気が要ることだったけど、コンサートがある度にクロークへちょっとしたお菓子を持って行ってたんだよ。ある時、60人くらいしか入らない、小さなホールでのコンサートがあった。終演後に本人が出てくると聞いたものだから、直接渡そうと思ってね。今か今かと待ちわびて、出て来たらすぐに渡しに行った。そうしたら、私のことを知ってるって云われたんだ。いつもお菓子ありがとうって。一か八かで演奏について聞きたいことがあるから、今度会ってくれないかと聞いてみたら「いいぞ」って云ってもらえたんだ。そこから交流が始まってね。一回きりと思ったんだけれど気が合うのか何なのか、定期的に会うようになった。周りの大人は、私の才能ばかりを見ていた。でも、織田作は他の大人とは違った。私をただの個人として見てくれていたんだ。やっと私自身の存在を認めてもらえた気がして、会うのは月に一度くらいだったけれど充実した時間だったよ。音楽のことも教えてもらったし、他愛もない話もした。一緒にご飯を食べる時だってあった。
でもね、中学2年生の時、織田作は突然事故で亡くなってしまったんだ。彼の音楽を聴いて、一緒に語って、練習して追いかけて、それで幸せだったのに、彼は居なくなってしまった。どうしようかと思ってね。兎に角ショックだったから。音楽を辞めてしまおうとも思ったんだよ。でも、織田作に云われたことを思い出してね。「おまえが本当に追ってるのは私じゃない」って。誰だろうって考えて、あぁ中也のことだって分かったんだ。今はその言葉の意味がよく分かるんだけれど、当時はショックの方が大きかった。それで、結果的にヴァイオリンを辞めてヴィオラを演奏する事にしたんだ。だから森先生の所を抜けて、紹介してもらった福沢先生に習うことにしたんだよ。楽器は他にも色々習ってみた。だからピアノも弾けたりするんだけれどね。君ばかりが追いかけていたわけでは、決してないんだよ。ひたむきにひとつのことに向かい合える君のことが、私はどこか羨ましかった。ずっと、今でも。最初は馬鹿にしてたけど、君の姿を見る度に少しずつ変わっていって、いつの間にか憧れに変わっていたのさ。
「私も君を、ちゃんと追いかけられているかい……?」
「……そんな風に思ってたんだな」
「だってずっと、隠そうとしてきた気持ちだったんだもの。話していくうちに伝えたくなったのさ。織田作のおかげかな」
「そうかもな」
「自分の才能が、たまに怖くなるんだ。今は慣れたけど、小さい頃は特に『羨望』と同時に『嫉妬』も感じやすくてね。人より出来すぎてるのは分かってたんだけど、みんな私を人じゃない何かに見ている気がして怖かった。だから私は、中也がこうして普通に接してくれるのが嬉しいの。それ以上にキスもしてセックスもして、こんな風に深い関係になれる人が、織田作以外にも出来るなんて思ってなかった」
太宰は中也を愛おしげに見つめた。
「俺は、太宰と一緒に演奏するのも、キスするのも……その、セックスするのも好きだから一緒に居る。怖くない。むしろ、奏者としては尊敬してる」
「ありがとう。君は私に助けてもらってばっかりというけれど、君が思っている以上に私も君に、助けてもらっているよ。それを忘れないで」
―――さて、感傷に浸ったところで長くなったしそろそろお別れかな。過去を振り返るのもたまには悪くないね。そうだ、君たちにちょっとしたプレゼントがある。箱を開けてみるといい。演奏会当日は私も聴きに行くよ。そっぽを向かない演奏をしている君たちを、本当に楽しみにしているからね。幸運を祈っているよ。
森鴎外―――
「そうだ、箱の中身って何なんだ?」
「開けてみるね」
箱を開けると、中にはうさぎと猫がヴィオラとヴァイオリンを演奏している姿の形をしたオルゴールが入っていた。陶磁器製でツヤツヤしている。おまけに格好は蝶ネクタイにスーツだった。
「これはまるで、私たちだね」
「森先生、よく見つけたな」
「あの人のことだから、特注品かもよ?」
「そうなのかもな。……で、何の曲なんだ?」
太宰がネジを回し、曲を聴いてみる。すると、聞き慣れた懐かしい曲が流れてきた。
「これは、」
「きらきら星……!」
「初めて一緒に演奏した曲、か」
ふたりはオルゴールが止まるまで懐かしい音楽を楽しんだ。
「なぁ太宰」
中也は聴くうちにある考えが浮かび、太宰に話し掛けた。
「なんだい?」
「アンコールの曲、変えないか?」
「何に?」
「きらきら星変奏曲に。あの時と同じ楽譜で」
中也は今の自分たちが演奏するとどうなるのか気になったのだ。
「楽譜残ってるかなぁ」
「手前はどうせ覚えてる、だろ?」
「……まぁね」
「やっぱり」
「そりゃあね、忘れられるわけないじゃないか。私の人生の、分岐点だったんだから」
「いい機会だし、いいだろ?」
「勿論だよ。それに、」
「それに?」
「私も、同じこと考えてた」
「……どうした? 太宰」
その時、太宰の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。突然の涙に中也は驚いたが、太宰の涙を机越しに拭った。
「ごめんね、いきなり。色々思い出してね……、やっと『人』になれた気がしたんだ」
「人に?」
「今まで何でも出来るのが、当たり前だったんだ。音楽も勉強も。実際、ちょっと努力すれば人並み、いや、それ以上に出来た。天才というレッテルを貼られて生きていたんだ。私の世界は、何でも出来て当たり前の世界だった。人とのコミュニケーションは確かに苦手だったけど、歳を重ねるにつれて世の渡り方というのかな? それが段々分かってきてね。適当に愛想良く振る舞えば、どうにでもなったのさ。適当だったから深く人と関わるなんてことは滅多になかった。だからだと思う、イメージだけが一人歩きして、本当の私を見てくれる人も滅多に居なかった。それで、人のイメージの世界で生きてるみたいで、自分が自分でないような、まるで造られた機械のようだと思って……」
太宰はここまで云うと、自分の気持ちを表現するための言葉を探した。10秒ほど考えると、太宰は再び話し始めた。
「苦しかったんだ。今思えば、ずっと苦しかったんだと思う。大学生の時に授業サボってみたり、勇気が出ずに留学をずっと見送りにしていたことを、さも君の為だったかのように云ったんだけれど、結局……、自分の為だったんだ。君しか居なかったのだよ。離れたくなかった。私を見てくれたのは、織田作と君だけだ。考えてみれば、君はずっと昔から、私のことをただまっすぐ、みてくれていたことに今更、きがついたんだ……っ、ごめん、なみだがとまらない……」
ぽろぽろときれいな涙が落ちる。中也はただただ、優しく涙を拭うのだった。
「俺たちはもうとっくに『双黒』なんだから……」
中也はそう云うと椅子から立ち上がり、太宰の方へ向かった。そのまま足下に跪き、太宰を見上げる。
「『孤独』じゃないだろ」
そして中也は太宰の片手を取り、両手で力を込めて握った。
「……そうだね、中也」
太宰は空いた片手を中也の手の上に重ねた。
「ふたりで居れば、大丈夫だ」
「ねぇ、キスしたい。こっちおいで?」
太宰は座ったまま、膝をポンと叩いた。云われるがまま、中也は太宰の膝に跨がった。
「おあずけの分か?」
「うん。今とっても、君のことが愛しくて堪らないんだ。好きだよ、中也」
太宰はちゅ、と中也に軽く口付けた。
「離れないで」
「一緒に居て」
「好き」
中也に言葉を掛けながら太宰は唇を落としていく。太宰が口付ける瞬間に目を瞑ると涙が頬を伝っていった。
「太宰」
中也は名前を呼ぶと、太宰の目元に口付けた。
「俺も、一緒だ」
「……うん」
頬を伝った雫が床に落ちていった。そして、中也の顔がゆっくりと近付いてくる。どこか安心した気持ちで、太宰は目を瞑った。