夏休み

2020.08.16

 全く興味がないバンドの着信音が鳴り響いた。その音で、眠りに落ちていた意識が一気に引き上がっていく。覚醒しきっておらず、ぼんやりしながら枕元を探って電話に応答した。
「もしもし、ちゅうや」
「オイ太宰、プール行くぞ」
「朝一に電話してきたと思ったらいきなりそれかい」
「暑ぃし行きたくなったんだよ」
「何もこんな時間に掛けてこなくてもいいんじゃない。まだ7時だよ? どうせ夏休みなんだしさ」
「それは悪かった。支度もあると思ってな。で、どうなんだ。行くのか? 行かないのか?」
「今日は暇だし、行ってあげるよ」
「わかった。じゃあ、学校近くのコンビニに9時半集合な」
「了解」
 そう云って、私は電話を切った。支度にそう時間は掛からないため二度寝しても間に合うが、すっかり目が覚めてしまったので体を起こした。軽く伸びをして、カーテンを開けるとそこには快晴の青空が広がっていた。昨日見た天気予報によると、今日は真夏日らしい。中也がプールに行きたがるのも肯ける。
 中也は小学生からの幼なじみだ。夏休みは毎日遊んでいた。でも、中也は中学生になると両親の都合で転校してしまった。高校生になって、入学式の時に見覚えのある赭色を見つけた。入学早々、頭髪検査に引っかかっているようだった。幼なじみだと云って先生からの誤解を解いたのがきっかけで、また一緒に居るようになった。夏休みもあの頃みたいに毎日ではないが、プールに行ったり、課題をやりに図書館に行ったり、ゲームをするためにお互いの家に行ったり、なんならただ話すためだけにわざわざ会ったりしている。中也と一緒に居るのはどこか心地良くて、つい安心してしまう。だから今日も、真夏日だというのに外出する決心をした。
 支度を整えてから適当にテレビを観て過ごし、頃合いを見計らって家を出た。

 猛暑の中30分も歩いて、集合場所のコンビニに辿り着いた。
「太宰、自転車は? 手前、まさかまだ」
 先に着いていた中也に声を掛けられた。
「あー、そうだよ。まだ修理に出せてなくてね」
 私の自転車はパンクしているのだ。夏休みに入る前にパンクして以来、ずっと修理せずにそのまま放置してある。高校は徒歩で通うには少し遠く、自転車通学をしている。
「馬鹿野郎、手前の家からだとここまで結構かかるだろ。熱中症になったらどうすンだ!」
「えぇー、誘ったの君でしょ。そういうわけだから、ちょっと休憩させてくんない? 流石に暑すぎるよ」
 私がコンビニに入ると、中也も乗っていた自転車を降りて後について来た。異論はないらしい。店内でスポーツドリンクを購入し、イートインスペースで水分補給をする。
「はぁーっ、生き返る……」
「それにしても、そんな格好して暑くねェのか」
 私の今日の服装は、白のTシャツに紺色で麻の長ズボンだった。一方中也はタンクトップにハーフパンツ。いずれもスポーティーなデザインで、通気性も良さそうだ。それに比べたら確かに、暑く見えるのかもしれない。
「このズボンさぁ、麻なんだよね。中也が思う以上に涼しいよ。あと、今日はプールだから包帯してないし、私にしては十分暑くない格好だと思うんだけど」
「俺、こういう服しか持ってなくてさ。涼しいなら買ってみてもいいかもな」
「だったら今度は服でも買いに行こうよ」
「おう。いいぜ」
 当たり前かのように中也は誘いに乗ってくれる。きっと、幼なじみだから。ふたりして、まるでデートみたいなことをしている。最近になって、私はそう思うようになってしまった。幼なじみに決まっているのに、中也との関係を上書きしたい気持ちでいっぱいだ。私達は高校3年生。つまり、来年の夏は別々の場所で過ごすかもしれない。高校3年生の夏は、一度しか訪れない。この夏をどう過ごそうか、考えてみたけれど明確な答えはなかなか出てくれなかった。数学の答えは簡単に導き出せるのに。
「さて、休憩したし出発しようか」
「そうだな。そろそろ行くか」
 涼しいコンビニを出て、中也が自転車に跨がる。
「仕方ねェから、今日も乗せてやる。その方が早いだろ」
 中也が振り向いて、自転車の荷台に目線を送っている。私は素直に、甘えることにした。
「じゃあ中也くん、よろしく!」
「へぇへぇ。手前は乗ってるだけだから楽だよな。まったく、いつになったら自転車直すんだよ」
 ふたり分の重さを乗せて、自転車はゆっくりと走り出した。

 市民プールには、コンビニから15分程で到着する。少し走るとちょっとした田舎の風景になる。田んぼに囲まれ、建物も見当たらない。おまけに一本道だ。あるのは田んぼの緑と空の青と、目線の下にある中也の赭だけ。プールは正直な所好きではないけれど、この綺麗なコントラストが見たくて断ることが出来ない。自転車がパンクしていなかった時は、中也の後ろに続いてその風景を見ていた。鮮やかだった。入道雲の白が背景に加わると、赭が余計に引き立って好きだ。
 自転車で風を切って走ると、暑さを忘れられる気がする。
「太宰、しっかり掴まってろよ」
 中也が毎回こんなことを云うから、遠慮せずにしっかり腹に腕を回してしまう。ピタリと体を密着させる。自分の心音が伝わってくるくらいに。もう逃がさないように。だから最近は涼しいだなんて思わなくて、只々中也の体温を、己の身に移すようにじっとりと感じている。自転車を漕いで少し体温が上がった中也と、自転車を漕がない私の体温は、丁度よく溶け合う気がする。
 この体勢だと襟足を束ねた中也のうなじがちらりと見える。「何だか美味しそう」だなんて思ってしまうのだけれど、これはきっと暑さのせい。今は夏休みなんだ。仕方ないよね。ガブりと齧りつきたい衝動を抑え込んで、代わりに持参していたタオルをリュックサックから取り出した。保冷剤がくるんである、冷たい濡れタオルだ。少しは冷静になれるだろうと、それを今、頑張って自転車を漕いでいる中也の首に掛けてやった。
「ひゃっ」
 突然の冷たさに、吃驚したみたい。なんだ、こんな声も出すんだ。とても色っぽく聞こえてしまった。見えなくなったはずのうなじに目が吸い寄せられる。

 まァ、今は夏休みだから仕方ないよね。

 自分にもう一度そう言い聞かせて、中也に掛けたタオルを避ける。
 美味しそうな少し冷たいうなじに、今度こそ齧りついた。